2021.05.18
東日本大震災。気仙沼の被災住民を救った「いのちのおむすび」
被災地の現場で芽生えたボランティア精神と広がった支援の輪
生駒和彦氏(有限会社いこま気仙沼給食センター 社長)
世界三大漁場の一つである三陸沖の漁場から豊富な魚介類が水揚げされる宮城県気仙沼市は、東日本大震災で津波の直撃を受け、さらにその後に発生した火災により町の中心部が焼失し大きな被害が出た場所です。被災されながらも、現地で震災当日から被災住民のために避難所に食べ物を届け続けた、生駒和彦氏にお話を伺いました。
~人がいて場所があって食材もあった・・・やるしかなかった~
――東日本大震災当日、どのような状況だったでしょうか。
生駒和彦氏(以下 生駒) 地震発生時は経営する「気仙沼給食センター」で仕事中で、大きな揺れに遭遇しました。その後に襲ってきた津波が会社の近くの川を逆流してきましたが、幸い職場は難を逃れ無事で、夕方になり揺れが少し落ち着いてから、状況を確認するために避難所となっていた近くの中学校の体育館に向かいました。途中の津波被害を受けた場所の光景は地獄絵図のようで、今でも夢に見ます。
やっとのことで体育館に着くと、そこで多くの人々が食べ物に困っていることを知ったので、急いで会社に戻り備蓄していた米とプロパンガスを使用してご飯を炊きました。余震でガスの安全装置が働いて途中で火が消えてしまうこともあり、上手くお米が炊けたらおむすびにし、ダメだったらおかゆにして、その日の夜から体育館の住民の方に提供を始めた次第です。翌日からは停電のために冷凍庫の中で溶けている食材を活用しておかずを作り、おむすびと共に1日に1~2回、避難所に提供、さらに会社の前でも炊き出しを行ったところ、徐々に噂が広がり、行列ができるようになりました。水は断水で出なかったので、近所の水が出るところから幾度となく運んでいました。幸い私のところには、人がいて、場所があって、食材もありました。困っている人のことを思うとやるしかなかったのです。
――住民からは「いのちのおむすび」と言われていたと。
生駒 震災当日、避難所となっていた中学校の体育館には津波から逃れ着の身着のままで数百人が避難しており、寒空の下、ラジオが過酷な状況を伝え、火事の明かりが夜空を照らし続け、大きな爆発音が鳴り響いていました。不安と恐怖に苛まれる避難者に配布されたおむすびは、かけがえのない贈り物で、それから連日おむすびを配りましたが、じきに「いのちのおむすび」と呼ばれるようになったと聞いて、胸が熱くなりました。
~長期化した過酷な状況、人々の支援に感謝~
――その後はどのような状況だったのでしょうか。
生駒 幸い家族は無事でしたが、自宅は津波火災で跡形も無くなったので、工場の事務所で寝起きしながら約40日間の間、炊き出しを続けました。過酷な状況の中でも、支援の輪が徐々に広がり、色々な方々に助けていただきました。
レンタル重機屋さんが大きな発電機を、また不足していたガソリンなどもガソリンスタンドが優先的に融通して下さり、停電中でも途中から冷凍庫と冷蔵庫が使えるようになりました。炊き出しでは同じような食材が続いていましたが、途中から色々なところから食材もご提供いただけて大変助かりました。漁師さんから漁船の倉庫にあった鯖をもらったり、築地に行くはずだった高級食材を満載したトラックから鰤や鯛を頂いたりしたこともあります。また気仙沼市も給水用のタンクを設置してくれて、生ゴミが多くなってきて困っていたところ、ゴミ収集車で定期的に回収してくれるようにもなりました。そのような関わりの出来た方々との繋がりは今でも続いています。
疲れも出てきて、とても自分一人では対応しきれないと思うこともありましたが、住民の方々が喜んでくれることを励みに皆さんのご協力とご支援で継続することができました。
――海外からの支援もあったと聞きました。
生駒 全世界からも様々な支援を頂きました。震災時にたまたま中学生の娘が語学研修でオーストラリアにホームステイをしていましたが、本人を心配させないようにと日本に帰国する際に初めて日本で震災があったことをホストファミリーから知らされたこと、そしてスーツケース一つ分の服や食品など沢山の支援物資を頂いたことにも大変感激しました。全世界の方々が日本のことを思っていてくれたことを実感した出来事でした。
~今後への思い~
――震災対応で改善すべき事項があると思いますか。
生駒 今回の震災では、自宅にいた避難者には食べ物や支援物資等が十分には届かずに大変だったと思います。家にある食品を細々と食べつないで生き延びたという事例が多いため、次からはそのようなことが起こらないように自宅避難者への対応を考えておくことが大切だと思います。
震災後ある程度経つと、アルファ米や菓子パンなども配られるようになりましたが、今思い起こせばその時に配布されたアルファ米は尾西食品さんの製品だったわけで、大変助けられました。防災食はどうしても米や麺が中心になりますが、災害直後の急場を凌いだ後には人はいろいろなものを食べたくなってくるので、できればスイーツ的なものなども備蓄してあると良いと思います。ケーキが食べたくなった時に、ホットケーキミックスが重宝されました。
――子供達はどのようにされていたのでしょうか。
生駒 避難所運営では子供達も自ら動いて色々と活躍しましたし、厳しい環境の中でも子供達は元気に走り回っていました。子供達は周りの大人達がどれだけ復旧復興のためにこの10年間頑張ったかを見ているので、皆しっかりしていて、中には語り部になったりした子もいます。気仙沼も、気仙沼大橋が出来て三陸道も開通し、街並みも綺麗になってきました。子供達は震災前の古い街並みはもう覚えていないかもしれませんが、新たに出来上がりつつある今の街並みが彼らの故郷になっていくわけです。
――気仙沼の今後、未来に向けて思うこと。
生駒 復旧復興の工事も終了し、工事関係者もいなくなる中、人口も減り、街も静かになってきています。さらに三陸道が開通して移動が容易になったため、競争が激化してきていて、地元企業は大変厳しい環境にさらされています。資金やマンパワー不足は否めないですが、経営する配食事業でも今までの枠にとらわれない新たな可能性を模索していこうと考えています。
生駒和彦氏(プロフィール)
有限会社いこま 気仙沼給食センター 社長
気仙沼市で配食サービスを行う企業を経営。東日本大震災 で自ら被災しながらも、震災直後から避難所に食べ物を提供し続け、多くの住人を助けた。