2024.10.23
中越地震の経験を基に被災地支援活動を続ける女性チーム
新潟中越地震から20年
中越市民防災安全士会 女性部 シュークリームのみなさま
今回は、女性ならではの視点を生かし、女性、子ども、
親子ならびに高齢者の意識や知識・技術の向上につながるよう、地域で防災講座を開催し、積極的に被災地に出向き、支援活動を続けている中越市民防災安全士会女性部「シュークリーム」のみなさまに、中越地震のご経験と現在の活動内容についてお伺いしました。
〜中越地震の発生、被害の実態と避難所生活~
――生きる望みを無くすほど
中越地震は小千谷で被災しました。振り返ってみると、被災した時は生きる望みを無くしていました。いまだに記憶が途切れている部分があるのですが、「その記憶を思い出すことは貴方にとってマイナスだから身体が防御して記憶を消している。敢えて思い出そうとする必要はない、心配しなくていい。」とお医者さんに言われて安心しました。災害そのものの大きな揺れ、家の中のものが落ちてくる、冷蔵庫が走ってくる、自然と身体が飛ばされる、掴まるところもなく、どうやって逃げたのかも記憶が曖昧ですが、余震が続く中、怖くて震えながら道路で寝たのは覚えています。夜が明けて明るくなると周辺の様子に驚きました。すぐそばの茶郷川は、上流にある神社の土手が崩れて川を塞ぎ、今にも溢れそうな状況でした。道路は液状化、電柱は傾き、電線は切れて垂れ下がり、陥没した道路の亀裂を覗くと、どこまでも深く真っ暗な穴が続いていました。その時は、小千谷はもう終わりだと思いました。
――逃げ出してしまった避難所
一夜を明かした後は車で生活していましたが、エコノミー症候群で知り合いが亡くなったりと、環境は厳しかったです。避難所は満員で入れませんでしたが、暫くしてからようやく入ることができました。ただ避難所にいると、つらい記憶がフラッシュバックしてしまい、すぐ逃げ出してしまいました。一方で、色々な事情で逃げ出せずに厳しい環境を我慢しながら長期間過ごした人もいましたが、その時は残った人たちのことを考える余裕など全くありませんでした。本当に身勝手だったと思いますが、それがその時の状況でした。つらいことは多かったですが、そればかりではなく、小千谷中学校のグランドに他県のお母さんたちが炊き出しをして力づけてくれたことが印象に残っています。地元の魚介類を持って来て「生きてさえいれば、きっと良いことがあるから頑張ってね」と声を掛けながら熱いお味噌汁を渡してくれました。一口すすると、お味噌汁の温かさと炊き出しをする皆さんの心の温かさが胸に響き、とても嬉しかったのを憶えています。
〜女性部ならではの災害時支援活動〜
――中越地震の経験がその後の活動に影響を与えた
当時は地域の自主防災会というのは無く、町内会とコミュニケーションを深めていませんでした。災害が起きたらどこに逃げたらよいかなどという話が上がったことは無く、中越地震が突然起きた時、周りを見回しても知った顔がなく、皆さんどこに逃げたのか解りませんでした。職場も大事ですが地域とコミュニケーションを深めて「助けて」と言える相手を作っておかないとダメだと思いました。そして知らないことの怖さも感じました。情報はとても大事。その頃の私は平気で「誰も教えてくれなかった」と不満を言っていました。情報は待っているのではなく、自分から求めて取りにいかなければならない。そういった反省点から防災士の資格を取るきっかけになり、その後の活動につながっています。
――女性部誕生のきっかけ
間仕切りもなく、混雑している避難所では怖い思いをいくつも体験しました。男性が夜になると酒盛りをしたり、仮設トイレの周りでは、女性が来るのを待っているのか煙草を吸いながら男性がたむろしていて、とても怖かったです。仮設トイレのドアも鍵をかけているのに開けられそうになった人もいたので、1人では怖くて行けませんでした。実際にこういう事は、メディアは取り上げてくれなかった経験から避難所運営のサポートをしたいと思い、女性部を立ち上げました。ピンクのユニフォームにも意味があります。SOSを出そうとしている人は立場の弱い方です。私たちであれば「声を掛けても安心」「話を聞いてもらえる」「相談にのってもらえる」とすぐに解かるように、ビブスのような派手な色にしました。私たちは専門家ではありませんが、これまでの経験を活かした得意分野でサポートができれば良いと思います。
――能登半島地震での食糧事情
新潟県は雪国で、昔は頻繁に買い物もできなかったので、塩引き鮭や漬物といった保存食が沢山存在します。同じ食材でも味と形を変えて色々な料理に出てくるので、新潟の保存食を使った普段に近い食事がとれると良いと思いました。輪島市に支援に行った際にお弁当は美味しそうに見えましたが、揚げ物は高齢者にはきついし、似たようなメニューが続き食欲がなくなったり、野菜が入っていなくて体調を崩したりという声を聞きました。避難所では出されたものを食べるしかありませんが、もし家に帰れたら、少しの水と熱源を利用して保存食をアレンジすることができます。助かった命をどのように健康を保ちながらつなげていくかは、やはり食が大切だと思います。そのためシュークリームでは保存食や備蓄を使った料理を紹介し、アレンジレシピの冊子も作りました。
https://nkyod.org/wp-content/uploads/2019/01/8d095b46c40801990b7b6cc2fcc3a698.pdf
――能登半島地震での支援活動
チーム中越(長岡協働型災害ボランティアセンター)の一員として、 足湯隊を組織し、 被災された方のために足湯サービスをやっています。お湯を入れたバケツに足をつけてもらいながら手・腕のマッサージをするのですが、目的はお話を聴くことです。被災者同士ではつらい話が出来ないので、自分の中に溜め込んでしまっている人が多いのです。私たちが心がけているのは、無理に聞き出すのではなく、話を引き出すこと。私たちの中越地震の被災経験を話すことで徐々に心を開いて話をしてくれるようになります。何回も行き顔見知りになって、コミュニケーションを深めていけば、思っていること、心配していることをぽつりぽつりと話してくれますので「また新潟から来ましたよ」と、継続して訪問しています。避難生活をしている人は周りの人から見放されたと思うことがつらいです。次にどこかで災害があると、報道やボランティアの方の目がそちらの方に向かったりすると、私たちのことなんて忘れられたと寂しい気持ちになってしまうのです。被災地で同様の活動をする各地の仲間・同志と連携して、現地と長く繋がりを持ち続けたいと思っています。
■中越市民防災安全士会 女性部 シュークリーム プロフィール
かつての避難所運営が男性主体に偏っていたことにより、避難所において要配慮者が過ごしにくかったり、性暴力につながってしまうことがあった。災害対応力を高めるためには、女性特有のニーズにも目を向けた女性ならではの視点も取り入れるべきであり、男女が共同で参画する避難所運営の普及や支援のために2016年に女性部をスタート。地域で防災教室を開催したり、被災地の支援活動を行っている。シュークリームの名前は、地域の皆さんをやわらかく暖かく包み込みたいと名付けた。
〜中越地震の発生、被害の実態と避難所生活~
――生きる望みを無くすほど
中越地震は小千谷で被災しました。振り返ってみると、被災した時は生きる望みを無くしていました。いまだに記憶が途切れている部分があるのですが、「その記憶を思い出すことは貴方にとってマイナスだから身体が防御して記憶を消している。敢えて思い出そうとする必要はない、心配しなくていい。」とお医者さんに言われて安心しました。災害そのものの大きな揺れ、家の中のものが落ちてくる、冷蔵庫が走ってくる、自然と身体が飛ばされる、掴まるところもなく、どうやって逃げたのかも記憶が曖昧ですが、余震が続く中、怖くて震えながら道路で寝たのは覚えています。夜が明けて明るくなると周辺の様子に驚きました。すぐそばの茶郷川は、上流にある神社の土手が崩れて川を塞ぎ、今にも溢れそうな状況でした。道路は液状化、電柱は傾き、電線は切れて垂れ下がり、陥没した道路の亀裂を覗くと、どこまでも深く真っ暗な穴が続いていました。その時は、小千谷はもう終わりだと思いました。
――逃げ出してしまった避難所
一夜を明かした後は車で生活していましたが、エコノミー症候群で知り合いが亡くなったりと、環境は厳しかったです。避難所は満員で入れませんでしたが、暫くしてからようやく入ることができました。ただ避難所にいると、つらい記憶がフラッシュバックしてしまい、すぐ逃げ出してしまいました。一方で、色々な事情で逃げ出せずに厳しい環境を我慢しながら長期間過ごした人もいましたが、その時は残った人たちのことを考える余裕など全くありませんでした。本当に身勝手だったと思いますが、それがその時の状況でした。つらいことは多かったですが、そればかりではなく、小千谷中学校のグランドに他県のお母さんたちが炊き出しをして力づけてくれたことが印象に残っています。地元の魚介類を持って来て「生きてさえいれば、きっと良いことがあるから頑張ってね」と声を掛けながら熱いお味噌汁を渡してくれました。一口すすると、お味噌汁の温かさと炊き出しをする皆さんの心の温かさが胸に響き、とても嬉しかったのを憶えています。
〜女性部ならではの災害時支援活動〜
――中越地震の経験がその後の活動に影響を与えた
当時は地域の自主防災会というのは無く、町内会とコミュニケーションを深めていませんでした。災害が起きたらどこに逃げたらよいかなどという話が上がったことは無く、中越地震が突然起きた時、周りを見回しても知った顔がなく、皆さんどこに逃げたのか解りませんでした。職場も大事ですが地域とコミュニケーションを深めて「助けて」と言える相手を作っておかないとダメだと思いました。そして知らないことの怖さも感じました。情報はとても大事。その頃の私は平気で「誰も教えてくれなかった」と不満を言っていました。情報は待っているのではなく、自分から求めて取りにいかなければならない。そういった反省点から防災士の資格を取るきっかけになり、その後の活動につながっています。
――女性部誕生のきっかけ
間仕切りもなく、混雑している避難所では怖い思いをいくつも体験しました。男性が夜になると酒盛りをしたり、仮設トイレの周りでは、女性が来るのを待っているのか煙草を吸いながら男性がたむろしていて、とても怖かったです。仮設トイレのドアも鍵をかけているのに開けられそうになった人もいたので、1人では怖くて行けませんでした。実際にこういう事は、メディアは取り上げてくれなかった経験から避難所運営のサポートをしたいと思い、女性部を立ち上げました。ピンクのユニフォームにも意味があります。SOSを出そうとしている人は立場の弱い方です。私たちであれば「声を掛けても安心」「話を聞いてもらえる」「相談にのってもらえる」とすぐに解かるように、ビブスのような派手な色にしました。私たちは専門家ではありませんが、これまでの経験を活かした得意分野でサポートができれば良いと思います。
――能登半島地震での食糧事情
新潟県は雪国で、昔は頻繁に買い物もできなかったので、塩引き鮭や漬物といった保存食が沢山存在します。同じ食材でも味と形を変えて色々な料理に出てくるので、新潟の保存食を使った普段に近い食事がとれると良いと思いました。輪島市に支援に行った際にお弁当は美味しそうに見えましたが、揚げ物は高齢者にはきついし、似たようなメニューが続き食欲がなくなったり、野菜が入っていなくて体調を崩したりという声を聞きました。避難所では出されたものを食べるしかありませんが、もし家に帰れたら、少しの水と熱源を利用して保存食をアレンジすることができます。助かった命をどのように健康を保ちながらつなげていくかは、やはり食が大切だと思います。そのためシュークリームでは保存食や備蓄を使った料理を紹介し、アレンジレシピの冊子も作りました。
https://nkyod.org/wp-content/uploads/2019/01/8d095b46c40801990b7b6cc2fcc3a698.pdf
――能登半島地震での支援活動
チーム中越(長岡協働型災害ボランティアセンター)の一員として、 足湯隊を組織し、 被災された方のために足湯サービスをやっています。お湯を入れたバケツに足をつけてもらいながら手・腕のマッサージをするのですが、目的はお話を聴くことです。被災者同士ではつらい話が出来ないので、自分の中に溜め込んでしまっている人が多いのです。私たちが心がけているのは、無理に聞き出すのではなく、話を引き出すこと。私たちの中越地震の被災経験を話すことで徐々に心を開いて話をしてくれるようになります。何回も行き顔見知りになって、コミュニケーションを深めていけば、思っていること、心配していることをぽつりぽつりと話してくれますので「また新潟から来ましたよ」と、継続して訪問しています。避難生活をしている人は周りの人から見放されたと思うことがつらいです。次にどこかで災害があると、報道やボランティアの方の目がそちらの方に向かったりすると、私たちのことなんて忘れられたと寂しい気持ちになってしまうのです。被災地で同様の活動をする各地の仲間・同志と連携して、現地と長く繋がりを持ち続けたいと思っています。
■中越市民防災安全士会 女性部 シュークリーム プロフィール
かつての避難所運営が男性主体に偏っていたことにより、避難所において要配慮者が過ごしにくかったり、性暴力につながってしまうことがあった。災害対応力を高めるためには、女性特有のニーズにも目を向けた女性ならではの視点も取り入れるべきであり、男女が共同で参画する避難所運営の普及や支援のために2016年に女性部をスタート。地域で防災教室を開催したり、被災地の支援活動を行っている。シュークリームの名前は、地域の皆さんをやわらかく暖かく包み込みたいと名付けた。