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Onisi 防災コラム その時なにが起こったのか、今からどう準備すれば良いのか 〜 専門家のアドバイス、被災された方々の声を通して、非常食、防災食のあり方を探る 〜 Onisi 防災コラム その時なにが起こったのか、今からどう準備すれば良いのか 〜 専門家のアドバイス、被災された方々の声を通して、非常食、防災食のあり方を探る 〜

2021.03.11

被災の経験から防災を文化に。

~阪神・淡路大震災で、避難所を率いた経験から~

中溝茂雄先生(神戸親和女子大学 発達教育学部児童教育学科 教授 防災教育学会理事 副会長)

1995年1月17日、兵庫県南部を中心に発生した「阪神・淡路大震災」。当時、2000名を超える避難者が集まった神戸市立鷹取中学校(神戸市須磨区)で、同校の教職員として先頭に立って避難所を運営したのが、現在は神戸親和女子大学発達教育学部児童教育学科の中溝茂雄教授です。震災当時の避難所の状況などについて、改めてお話を伺いました。

――中溝先生は、2000名規模の避難所となった鷹取中学校で対応にあたったそうですね。
中溝茂雄教授(以下 中溝) 鷹取中学校で当時、避難所運営を先頭に立って進めるかたちになりました。当時はすべての通信手段が途絶した状況で、市役所からは何の指示も連絡もなく、学校避難所ごとにそれぞれの判断をするしかなかったのです。焼け出された病院から、入院患者さんや医療従事者、付き添いの方などが避難して来られたので、学校の1フロアを使っていただきました。

被災現場で命をつなぐ3日間・どう乗り越えたか

 

――災害の超急性期(発生から2~3日)の食の問題はどんな感じでしたか。
(中溝)パン箱に入ったおにぎりやパンが届きましたが、1日目は行政の方が「私たちが配ります」と対応されましたが、2日目には食料は届いているけど、配る人が来ない。そこで、我々職員が配り始めました。助かったのは、3日目に北陸電力の発電車両が来たこと。3日目の夜に電気がついたことで、本当にありがたかったのは、避難所に来ている皆さんに指示する手段を得たことです。電気が通ると、校内放送が使えるわけですよ。そこでまず「この先どうなるかわからないので、行き先がある人は神戸の街中から離れてください」と呼びかけました。それから「今後は校内放送を使って皆さんに情報を提供します。各部屋にどれだけの人数がいるかを知りたいので、今から15分以内に班長を各部屋で選んでください。そこで班長さんに名簿を渡すので、住所氏名年齢等を書いてください」とお願いしたところ、すぐに名簿が集まりました。各部屋の人数を掌握することができたので、次は人数に応じて届いた物資を比例配分するわけです。例えば、2000人いるのに、おにぎりが1000個しかないなら、「2人で1つという配分をするので部屋で相談して乗り越えてください」と呼びかけました。

校内に設けられた避難所受付
メガフォンを持つ中溝先生

 

なお続く避難所生活、フードダイバーシティの課題

 

――部屋ごとの班長決め、名簿作りと人数の掌握、避難所の掌握、指示だしなどができたのは、日頃から子どもたちを統率されている先生方ならではですね。急性期(発生から1種間程度)の食はどのような状況でしたか。
(中溝)数日して生活が少し落ち着くと、救援物資としてカップメンが届くようになりました。1週間以内にLPガスやカセットコンロが入ってきて、学校にはやかんがいっぱいあったので、1階に給湯室を作りました。寒い時期でしたから、あったかいカップメンはありがたかったですね。さらに、最初の炊き出しが1月末に外部から入ってこられました。広域避難所のような機能もあったため、校区外からも食糧や物資を求める人がたくさん来られたので、登録制で対応していました。2月になると、市役所から夕食用のお弁当や朝食用のパン、お昼はカップメンや缶詰、即席みそ汁などが安定して配給されるようになりました。

――急性期のアレルギー、嚥下障害、高齢者の方などの食の問題はいかがでしたか。
(中溝)当時は人数を把握し、物資を比例配分で配布するのが中心で、アレルギー対策などは全然できていませんでした。また、お年寄りは固い、冷たいなどということで、なかなかのどを通らない方もいましたので、カセットコンロでお弁当のご飯をおかゆにしたり、お味噌汁に混ぜて雑炊にしたりして、何とか食べていた状況です。忘れてはいけないのは、長い避難所暮らしが続いてくると、人間はやはり楽しみや癒しを求めるようになるということ。自衛隊が設営してくれたお風呂は、受付や運営を我々やボランティアでうまく運用して、2日間で1800人が入れる体制を作りました。また、有志が避難所内で始めた喫茶店なども大人気でした。

避難所内にできた「喫茶たかとり」

 

震災の教訓を後世に伝えるため「防災を文化に」・日頃の備蓄が重要

 

――防災教育の重要性については、どのようにお考えですか。
(中溝)震災当時、鷹取中学には生徒会組織の中にボランティア委員会があり、私はその責任者だったので、「今はこういうことこそが勉強だよ」と子どもたちに話して、物資の配給作業や清掃などを一緒にやってもらいました。そうした経験がもとになって、防災教育が私自身のライフワークにもなってしまいました。昨年、神戸の舞子高校の防災環境学科を立ち上げた先生方や、大学の防災関係の先生方と一緒に、防災教育学会を立ち上げました。私の勤務する大学でも教員志望の学生に防災教育の授業も行っています。また、神戸市では震災直後に防災副読本を作っていたんですが、東日本大震災を契機として仙台市さんと協力して人事交流や子どもたちの交流活動、ノウハウの共有も行っています。教訓を後世に伝えるため、家庭科ではサバイバルの食事の作り方を、理科では地震のメカニズムを学んだりと、各教科に位置付けたカリキュラムを作っています。

神戸では今、小学校区ごとに防災福祉コミュニティという自主防災組織ができて避難所運営を担うことになっています。各学校に毛布、水、カンパン、フリーズドライのご飯アルファ米などが入っていました。今は保存のできる便利なインスタント食品が多様化しているので、そういったものをもっと学校で取り入れ、年に1回くらい給食で備蓄品を子どもたちに食べさせ、備蓄品を入れ替えるような制度を整えてもらうのも良いと思います。

――市民の防災意識を高めるために、どんなことが必要だと思いますか。
(中溝)即効性を求めることは、正直難しいと思います。一番聞いてほしい人は、一番忙しい人ですから。でも、システマチックに各教科の中で学ぶことのできる防災教育が、結果的には市民の防災意識の高まりにつながると思います。神戸では、当時吾妻小学校の音楽教師が作った『しあわせ運べるように』という曲が「復興の歌」として歌い継がれてきましたが、第2の市歌として制定されました。そういう防災文化を作っていくこと。運動会や授業参観、避難訓練での保護者への引き渡し訓練で、PTAにも協力してもらい、親や祖父母に一緒に勉強してもらうのも良いと思います。日頃から地域で避難所の開設訓練や炊き出し訓練をしておくのも良いですね。

――個人、家庭はどんな備えをすれば良いでしょうか。
(中溝)やはり日頃からの備蓄が大事ですね。私は登山やオートキャンプもやるんですが、アウトドア用品が被災時に非常に役立ちました。今は保存食品もずいぶん多様化しているので、味や簡便さで選ぶのも良いと思います。尾西食品さんのおにぎりやフリーズドライのご飯類、スープなども便利ですね。地震が広範囲で起きたときには、1週間くらい自力で生きられる量の備蓄品が欲しいところです。また、アレルギーを持つ子供の家庭では、アレルギー対応食も常備しておきたい。各家庭で防災の日などに備蓄品を食べ、必要なものを見直して入れ替えるサイクルを作るのも良いかもしれません。日本は毎年のように大きな自然災害に見舞われます。この経験を生かして“防災”を “文化”として育てていく必要があるのではないでしょうか。そのためには、こどもの時からの地道な教育が必要だと考えています。



中溝茂雄先生(プロフィール)
神戸親和女子大学発達教育学部児童教育学科教授
防災教育学会理事 副会長

阪神淡路大震災時に学校避難所運営の中核を担う。
神戸市教育委員会で防災教育担当としても活躍。
震災の記憶の継承として「防災教育」活動をけん引。